矢野 玉一 : 実父 1971年(昭和46年7月15日)永眠 享年52歳

再 会
星空に寄せて
ある貧しい森番の幻想
雪(1)
午 後
海を想う日
松 浜
雪(2)
煙 突
町角で
嵐の夜
橋のない虹
かいつぶりの話
汽車を待つ間に
初 秋
M子と私
松 籟
団 栗
自 虐
腕がだるい
ドロ蟹
角 度
金策旅行(1)
金策旅行(2)
姉の家
日 和
1972年(昭和47年6月30日)発行 矢野玉一詩集所収



略 歴     矢野玉一写真集

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大正8年(1919)
  4月19日 岡山市に生まれる。

昭和9年(1931) 
 高等小学校卒業と同時に、父の親方筋への徒弟入りする話が決められていたが、反発して自ら書籍取次店に勤める。

昭和15年(1940) 
旧満州国安達県の独立歩兵部隊に入隊。6ヶ月後肋膜炎に罹り、内地送還、広島陸軍病院で療養。

昭和16年(1941)、
 除隊。県商連事務所に就職。

昭和17年(1942) 
 藤原審爾氏を知り、同氏主宰の「曙」同人となる。

昭和18年(1943) 
 徴用され、呉海軍工廠の亀ヶ寮に入る。

昭和20年(1945) 
 徴用先で、召集令状を受け、岡山部隊に入隊。しばらくして、広島に転属、8月6日被爆(呉海軍司令部(約20km離れれていたが、窓側は海で障害物は殆ど無かった)ので、窓の反対、壁側にいたのと、机が盾になり怪我ですんだが被爆。窓側にいた人は死の灰を含む爆風によるガラスの破片その他により、全滅)(関連・長崎

昭和21年(1946) 
 「文学祭」に「再会」を発表。数人の仲間と出版業を起こす。

 昭和21年6月(1946) 
婚姻 

昭和22年(1947) 
 満州より引き揚げてきた木山捷平氏の知遇を得る。各種雑誌に作品を発表。

昭和24年(1949) 
 出版社解散、板野五郎氏経営の映画館に身を寄せる。

3月30日、水、晴。
   正午おきて初めて飯をたく。釜や鍋は、炊事一式を矢野玉一君が買い求めてくれた。この男よく気のつく良い青年で、岡山から藤原君の所に来て手伝いなどをしている詩人である。
注:木山さんが西荻窪に移った時 
                     木山捷平「酔い覚めの日記」講談社刊 より抜粋
 
 

昭和25年(1950) 
 東京定住を試みたがはたさず、失業状態が続く。

昭和27年(1952) 
 失対事業法による労務者となり、のちに、全日自労福島分会の書記長。

昭和31年(1956) 
 故藤原審爾氏の助力により上京、鷺宮小学校に用務員として勤める。(仕事が見つかるまで、半年位伯父の家に、そして東京に・・アパートが見つかるまで??、藤原さんの家に暫く ・・・記憶不明瞭) やがて、都職労中野支部執行委員として熱心に組合活動をする。

阿佐ヶ谷(故藤原審爾氏宅)に父に連れられよく行き、荻窪にも 7,8歳頃 駅近くの飲食店、小さかったので可愛がられたようでした。阿佐ヶ谷文学会、荻窪文学など集まりのようでした。 故井伏鱒二氏から直接電話が掛かってきたことも在ったようでした(「黒い雨」の前)、その時は「直立不動になった」と父が。

故木山捷平氏宅に連れていかれたこともありました。凄い人だと聞いていましたので、質素なのに驚きました。何時頃なのかは覚えていません

昭和34年(1959) 鷺宮から中野本町通り引っ越し 鷺宮小学校から桃園第三小学校へ転校
(ラーメンつけ麺好きな)父親においしいラーメンつけ麺屋あると連れられて入ったのが「大勝軒」、そこはPM6時頃、一つの大鍋スープが無くなれば閉店、食材の切れ端などが出れば寸胴タンク(r=30cm h=1m?)に放り込み無駄が一切ない、余り物を使用しているので寸胴タンク一つだけ。化学調味料は一切使用しない・・自然の具材だけでおいしくするには勉強研究・・ヒシヒシとそれが伝わる・・・・大変おいしかった
20代の調理師が 中華つけ麺料理・スープの作り方 おいしさの理由等、僕のしつこいくどい質問にも丁寧に応えてくれ、他にも何でも話が出来る人だった。  
そのうち居なくなり(・・何度か結婚・・子供でしたので意味が分かりませんでした)、「何処に行ったのか」と「東池袋 電車に乗って」と、当時。東池袋が何処にあるかも知らなったので何度も聞いたようだ・・12歳のころ
最近見たテレビ「ラーメン大好き小泉さん・・・」に顔写真が頻繁に、タブンあの時の人とは思いました・・以前から、大変な有名人・60年近く昔で半信半疑。  修行は大勝軒(中野)と有りましたので確信、父親が大好きな”つけ麺、とくせい蕎麦” でしたので。その調理師さんは山岸さんとのこと。
注:場所は現在大勝軒(中野)より杉山公園方面 店の前はカーブが コープ付近 2,300m?位。

”しつこいくどくど”思われる私と真摯に会話のできると思った人・・多くは何処かですれ違いが生じる場合が多いいが・・素直に会話が続く人は 著名になるのかな・・・、偏見予断のある人は駄目

中学1,2年? 父が藤原さん宅から帰ってきた時、映画脚本をちゃぶ台の上に置いた(何故、そんな事は初めで最後)、その時に 「主人公は脚本?映画では死んだようだが、致死量に達していなかった」?と。(何を言っているのだろう??)  1963/2「泥だらけの純情」日活封切 推測は出来ますが半信半疑です。

昭和38年8月(1963)
協議離婚 後で戸籍を見る機会があったので、その時に生きていることが分かりました。

昭和39年(1964) 
左の上瞼にできた腫瘍を皮膚ガンと診断される(被爆による)。(以前より、逆さ睫毛による眼球を圧迫・苦痛があった。)闘病生活が始まる。
 わたしら、戦時中、岡山で同人雑誌をやっていて、矢野玉一は、その頃からの仲間である。彼との出会いで、わたしの道はくるった。
 その頃わたしは、詩が好きで、密かに詩をかいたりしていたのだが、矢野と出会って、詩をあきらめた。
 矢野玉一は、六尺豊かな大男で、・・・・・・

「不死身の詩人― 矢野玉一」 藤原審爾著 より、冒頭の文章を抜粋 

           小説新潮 昭和45年11月号、「一人はうまからず」毎日新聞社刊  所収

昭和40年4月(1965)
 再婚   

昭和41年(1966) 
 左眼球を摘出する。闘病生活
「大学に行かないと 学歴が無いといい職に就けない」とよく言われた。同感でしたので、同じ行くならいい大学、勉強するには高校の近く立川に北窓3畳部屋3000円を借り、炬燵と布団をタクシーに乗せ引っ越し自活、職場も環境の良い国立音大図書館に。・・・旺文社関連には法政大学二部学生課の紹介で、後に労働組合を結成して 給料・一時金も獲得しあがり・・5000万以上の貯金も出来た・・富豪令嬢と無名文士との葛藤が生まれる事情・生活力の無さ・反面教師として学んだ・貯蓄に精進。
相続分数百万以上の遺産を残せる(病気入院・小学校入学?の頃から顔を見ていません・・微かに、ヒロイン女優ほど美人ではないと・・)とは信じられません・・富豪令嬢だったんだなと・・不思議。

昭和46年(1971) 
 「民主文学」に「ドロ蟹」他三編発表。
ガンの両肺への転移のため、処置の道も絶えたことを医師に宣告される。
3月2日、呼吸困難に陥り、小平市の桜堤病院に緊急入院し、
6月清瀬の東京都共済組合病院に移る。
7月15日永眠。 享年52歳

継母 死亡
生母 死亡

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